「おはよう! なんだか憂鬱そうな顔だけど、どうしたの?」
昨日の熊本の地震、イオンモールの爆発、倒壊した家屋……。
悲惨な状況のニュースを一人で見ていたことで、心がすっかり落ち込んでしまったようだ。
「リラクセーションの前に、少しお話ししましょうか」
椅子に腰かけてもらい、朝一杯の耀盌(ようわん)のお水を差し出す。
思いをひとしきり吐き出すうちに、彼女は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
人は大きな出来事があったとき、自分の中で何らかの「着地点」にたどり着くまでは、延々と話したくなるものです。
みなさんも、そんな経験はありませんか?
彼女が話すことで心を取り戻していく姿を見て、私は改めて「出来事は共有することが必要なのだ」と感じた。誰とも地震の話ができていなかった彼女にとって、解決するかどうかは問題ではなく、ただ「共有すること」そのものが大切だったのだ。
特に、多くの人が同じ経験をしているときほど、その必要性は増す。
思い返せば、東日本大震災の直後、私のもとにもカウンセラーとしての派遣要請が何度も届いた。
けれど、「ごめんなさい」、と断り続けた。
盲導犬協会から預かっていたTimがいたから動けなかったし、何より私自身に他者の話を聴く余裕なんてなかったからだ。
「誰か私の話を聴いて……!」
電源の切れたスマホを握りしめながら、何日もそう思い詰めていたほどだった。
だからこそ思う。
苦しいときに、素直に自分の心を誰かに打ち明けられる力。
大きな出来事が重しのように被さってきたとき、その力がどれほど自分自身を救ってくれる行為になるのか。

コメント
薫子神、日々リラクセーションを受けさせていただき、ありがとうございます。
私のひとりで思い悩み解決する癖、口に出せない我慢する癖は、私に定着していて疑問も持ちませんでした。
シェアする大切さを伺った時、
「私がシェアする事でどなたかの助けになるかもしれないですよね」
「そっちに行くか…まず自分だよ」
心にうごめくモノを外に出す”自分のために”。
薫子神にまた道を開けていただきました。
背中を向けずにちゃんと向き合うね、と心に向けた数分後に涙が滲んできました。
今、毎日薫子神に、私の微細な心の動きを受け止めていただき、時にはお叱りをいただき、道を示していただいています。
生まれて初めての幸せを感じております。
薫子神、深く感謝申し上げます。