初めての在り方學講座、22人で始まりました。
皆さんは事前ワークを提出し、こちらはそのワークをPDFにして講座前に皆さんに配布した。
それとは別に提出されたワークのパワーポイントを作成した。
参加者が受講時にPDFを見ながらワークの問いをその都度確認が出来れば、
ワークの趣旨を忘れずに集中できるかと考え、ワーク内容を文頭に記載した。
それは私の作業を手助けするはずだった。
しかし何故か単純作業なのになかなか進まない。
何度もワークの問いはなんだった?、
と思うワークが目に入ってきたからだ。
うん?こちらの問いはなんだった?えっ、なんでこうなる?
正解か不正解かで捉え解答してしまうことが予想されたので、
当てはめれば回答出来るようにと、例文も付け加えた。
のに、ことごとく逸脱しているワーク内容が目に入り、
その度文頭に戻りワーク内容を確認した。
受講時のためと思い文頭に記載した今回の問いは、私にとってとても助けになった。
伝えたいことはなんとなくわかるので、こちらで加筆や訂正しようと思ったが、
ある言葉が頭を過りやめた。
「今の日本は漢字は読めるが、文章を正しく読めない人の率が高い」
Ravennaのような小さなコミニュティで、日本の縮図を見た。
こういう場面はRavennaで20数年繰り広げられている。
どうしてこうなるんだろう、なんで?なぜ?と、
その都度、私の頭の中はぐるぐるする。
その都度、様々なことを何度も何度も伝えた。
主語は入れようよ。
あなたの会話の前には、相手はいるよね?
文章には、点と丸は入れようよ。
……。
今まで誰にも指摘されてこなかったのか。
指摘されても頭の中をスルーさせていたのか。
周りもそうだから誰もそうなっていることに気づかないのか。
父の言葉が過ぎる。
『お前は読解力がない。』
小さな頃からずっと言われ続けた言葉。
今もはっきりと頭に響いてくる。
私はこの言葉にどうこたえたらいいのか。
どうなったら、父からこの言葉を言われないようになるのか。
ずっと考えていたと思う。
ある法則が頭を過ぎる。
成果の8割が全体の2割からであることを表すパレートの法則だ。
うん、Ravenna、そのまんま……
講座終了後、解答出来ていた参加者のMさんから。
「問いに対しての解答内容が他者と違う!私、間違えた!焦った!」
『間違えていない。大丈夫。』
ここも問題。
多数決で方向性が決まってしまうこと。
その方向性がもしも間違えていたらどうなる?
今日は投票日。
みんな選挙に行こうよ!
様々な考えなければならないことが盛りだくさんだ。
自分が出来ることから始めることしかできないけれど、
出来ないことにも目を向け、
出来るように努力していかないと、
様々間に合わないことで埋もれてしまうよ。
そしていつしか、
それにも気づかない日本人の一人に、
あなたがなってしまうことのないように願う。
感想、要約ではないコメントを期待する。

コメント
Mさんとの出来事を読んで、自分自身の経験を思い出しました。
会議ではいつも少数派。
多数決で潰される。
それを自分の思考の悪さだと思っていた私に、薫子さんは「目的は何だ?あなたが感じた事なんだから、周りを気にしてどうする!」と強く指摘しました。
それは20年以上前のこと。
「2:8」の割合は変わらないし、「2」の中にもさらに「2:8」が存在する。
自分は「8」になっていないか?
私に言ってくれるのは薫子さんしかいない。
やらないとどうなるか・・・
これからも、腹を据えて向かいます。
夫だからといって、容赦しない。
「(相手に対する)想いを入れて、書き直す」
昨年9月の魂の見立てカウンセリングで、薫子神が私に教えてくださった御言葉です。
薫子神が、お父様から「読解力がない」と言われないために”ずっと考えていた”という姿勢が私には足りないと感じました。
だから、今回のように何度も同じ過ちを犯してしまうのでしょうか。
私も薫子神を真似て、「どうしたら薫子神に『相手に対する想いを入れて書き直す』と言われないようになるのか。」ずっと考えていきます。
今日は珍しく、関東平野部でも雪が積もるほどの大雪です。
盛岡に通いだす前は、寒い雪の日が大嫌いでした。
盛岡に通うようになってから、バス停からRavennaまで、雪の中を歩いたときの気持ちを思い出すので、雪の日が大好きになりました。
間もなく雪がやみそうなので、新雪の中を歩いて投票してきます。
ずっと考えていたけれど、考えていただけではなく、行動したよ。
でもその都度、叱られていたけれどね。
今はそれが生きて、私を支えているのは、確かなこと。
他人さんは叱ると逃げるからねw
数十年前の小学校、中学校、高校の授業を思い返したとき、自分で考え、発表し、他者と議論し、一つの結論を導き出すというプロセスはあまりありませんでした。
授業のほとんどが、正解、不正解に導かれ、生徒である私たちも結果が分かっていることを調べて記憶すればよく、真に頭を働かせることが少なかったです。
知らない知識をいただき、心に響くものもありましたが、授業の多くの時間は、「右へならえ」を習うことに費やされていたと思います。
教育が私たちに与えた影響は大きく、もっと主体的に考える教育を受けていたらという思いはありますが、今の私たちに出来ることは、問いがどんな背景で生み出されたのか、問いの意図は何か、問いが生まれた場所での自分の立ち位置は何かを考えること。
それを意識すると、問いを与える人と与えられる人との間に、正しいキャッチボールが始まり、問いを与えられる人は學びを受け取ることが出来るのだと思います。
そうそう、だからこの問題は個人の問題ではなくなるくらい、日本人全てに行き渡っているんだよ。
個人でどうこうしようたって、もうどうにもならない所まで来ちゃってる。
選挙見てもわかるよね。
でも、そんな中で育てられてきた日本の教育の中にもMichikoさんのように考えられる存在がいる。
私もそのひとり。
そして、私の周りには確かに確実にいます。
2割という少数派ではあるけれど、やらんとね、粛々と。
おはようございます。
ちょっとドキドキしますが、
コメント書いています。
在り方學講座に参加させて頂き、
私って考えて生きてないんだ、とよく分かりました。
そもそも直感タイプですし、
直感で動く、直感を大事に、と今までは教わってきて、
でも在り方講座等で先生のお話を聞かせて頂くうちに、
今世人間に生まれてきたんだから、
考えるということを経験したかったんだ。
そうだよね。
直感と思考と、両方大事じゃないか!と氣がつきました。
生きる為のバランスを取れるように、
學びを続けていきます。
それにしても、
考えるっていうのは、こんなに難しいことかと痛感しています。
そだね〜初めてだとドキドキするね。
麗さん、ようこそ。
コメントありがとう。
そう、考えて行こうよ。
考えたから、直感と思考の両輪が必要なんだって、気付いたね。
そこに行動も伴うと、ぐっと進み、今までと違う景色が必ず見えてくるよ。
考えてこなかったから、難しいね。
でも手をつけないと、ずっと難しいで終わってしまうからね。