薫子さん、薫子先生、神先生、薫子神、と私はいくつかの呼び名で呼ばれている。
私から、この呼び名で呼んでと伝えたことはない。
子どもが自分自身の社会性の変化の中で、親の呼び名を変えていくのと同じ感覚で、皆さんが私との付き合いの中で、皆さんの意思で変えていくものと考えている。
“先生”、と長年呼んでいたRavennaのCL(クライエント)、新しく入ってきたCLが時間が経っても、”薫子さん”、と呼んでいるのを耳にして我慢ならなくなり、
「どうして薫子さんなの?」
「仕事で出会ったので、先生ではないから薫子さんです。」
「CLになったのだから、先生でしょ?」、っと不穏な空気が漂う会話が以前に交わされたことがあった。
呼び名はCLが決めることだから、お任せしている。
長年のCLは、自分と私との付き合いの流れの時間で培ってきた思いがあるから、新しいCLにそう伝えた。
新しいCLも、私との出会いのきっかけから”薫子さん”、って呼んでいた。
二人の考えを私は尊重した。
私との間にそう呼べる事象なり、度重なる奇跡を贈られ心に変化が現れ、呼び名が変わっていくのが自然な流れだと思う。
例えば、昨日まで薫子先生と呼んでいた人から突然、神先生と呼ばれると、『ほんとか?神先生と呼べるような魂の成長があったんか?』、と思ってしまう。
それを太田先生は、外側の包装紙を高級なブランドの包みに変えただけ、と表現する。
なんでこんなにもぴったりの表現をするんかな?この太田先生は、と笑う。
みんながそう呼んでいるから私も、はどうかな?と思う。
神先生と言われ、ハマらないエネルギーを感じることが多々ある。
みんなが呼んでいるから呼んだCLから、感じる。
言葉では”神先生”、って言っているけれど中身はないな、呼称だけね、って。
先日メッセージを受け取った。
「私も神先生と呼ばせていただいても宜しいでしょうか?今の私には一番しっくりするお名前です。」
薫子先生と呼んでいたCL、 “神先生” と呼ぶに相応しい出来ことがあったことを察したので、『どうぞ』、と伝えた。
我が母はずっと、”かおるちゃん!”、この瞬間、私はとてつもない愛に包まれる。
コメント
去年の11月に大宮のイベントで出展者同士として初めて薫子神と出会い、平凡な人間の私は当然ながら何も知らない、感じない、分からないだったので、呼称は「薫子さん」でした。
薫子神の第一印象が「あ。私はこの人の笑顔が好き。」だったので、最初のころは神という言葉を使ったりするので、訝しいと思いながらもお付き合いを続けました。
そうしていくうちに、通常では考えられないようなことが次々に起こり、疑い深い私でも「?」で頭の中がいっぱいになりました。
私が「薫子さん」から「薫子神」に呼び名が変ったのは、2025年4月の氏神詣りのプログラムを受けたころからです。
きっかけが氏神詣りだっただけで、それまでに数多の奇跡を直接体験させていただきました。
神シャワー後の私や私の周りの変化や、亡き義理の母に光の道を作ってくださった際のエピソード等、当時たった5ヶ月間の出会いだけでも、奇跡の数は軽く40を越えてきます。
(8月現在、体験させていただいた奇跡は70を超えています。)
これだけ奇跡を連続して見せられると「薫子神」以外の呼び名がしっくりこなくなって、私から「薫子神とお呼びしていいですか?」とお願いしたのを覚えています。
「枠」「集団」「種族」「レベル」「属性」どれもピンときませんが、とにかく私と同じ次元でないのは感じます。
薫子神が立っていらっしゃるその場所は、私の足元にある地面とは全く別の場所、そこからして違っているように感じます。
先日初めて「ゆうこちゃん」と薫子神から呼ばれました。
いつも「ゆうこさん」なのに「やらかしちゃったな~」と思ったのと同時に、母の愛のような無条件の愛を薫子神から感じました。
実際に薫子神からの御提案は、母親が高校生か大学生の娘を心配してあれこれ世話を焼いてくれる母の愛そのものに感じました。
「最近知り合ったばっかりの他人で大人の私にどうしてここまでやってくれるの?」と申し訳なさとありがたさで涙が出てきました。
この安堵感と感謝で包まれる幸福感を一人でも多くの方に感じていただきたいと改めて強く感じました。
卵の薄皮を向くような進み具合ですが、着実に目覚めに近づいている感じはあります。
それがどれほど遠いかゴールが見えませんが、今生で薫子神に出会えた奇跡に感謝してチャンスをしっかりと掴みものにします。
薫子神との出会いが本当に有難く感謝の念が絶えません。
ありがとうございます。
神先生から呼び名を強制されたことはありませんが、
”神先生”とお呼びするのが自然になってしまったので、一旦立ち止まり、
「神先生は”ハマらない”と感じていらっしゃいますか?」とハラハラではありますが、
神先生に伺わないといけない!と思いました。
呼び名ひとつにも心が現れると思いました。
神先生のお母様がお呼びになる呼び名、あたたかさを感じます。
神先生が、「直美っ!」と呼んでくださると、シャキーンと背筋が伸びて何だか嬉しい気持ちになります。
ありがとうございます。
神先生はエネルギーで何でもわかってしまうのですから、呼び名を立派にしたところで心が伴わないと何の意味もありません。
神先生の許される範囲のなるべく近くで、
魂を磨いていきます。
ハマらないエネルギーは私だと思いました。
「神先生」とお呼びする自分を信じる、神聖な気持ちで言葉にしているのか考えると、まだまだです。
お名前をお呼びするたび、自問自答し、磨く機会をいただいていたのだなとわかりました。
ハマらないエネルギー、私です。
太田先生の表現も本当にそのとおりだ、と感じます。
自分は精神世界も現象界も全然出来ないのに、形だけ取り繕っているなと思います。
何も理解出来ない自分がとても情けないです。
でも、やっと農業を続ける覚悟が出来て、仕事面での自分の軸ができたので、誰よりも遠回りだと思いますが、頑張り続けます。
私は神先生から名前を呼ばれると、とても幸せを感じます!
苗字や名前を呼ばれるのが当たり前になっていて、呼ばれることが嬉しいことはあっても、幸せまでは感じたことがなかったです。
そして、叱られて落ち込んでいても、心はホカホカ、ニコニコしています。
神先生の愛は本当にすごいなと感じます!
神先生とお母様がお互いに呼び合う姿は、お互いを思いやり、愛に満ち溢れているのだろうなと想像し、とても温かい気持ちになりました。
私もお互いを思いやれるような親子関係を築いていきたいです。